小さなビス以外、そこには誰もいなかった。ひとりぼっちの魂が、孤独な歌を歌っていた。
夢の中で、両手が赤く染まっていたことを思い出し、バルサは掌に視線を落とした。
触れたモノを呪う、悍ましい手。いや、触れなくても……近くにいるだけで、害を与えているのかもしれない。
青白い顔の友人。
傍らで眠るアドビスを、じっと見た。
唯一、愛しいと思える存在。
バルサがペルにとどまる理由。いや、生きる理由そのものだと言って良い。
母親を失って、ひとりぼっちになったあの日から、バルサが愛する者はアドビスだけになった。
ビスだけが、泣いてくれる。
ビスだけが、笑いかけてくれる。
星が美しいとか、風が優しいとか、太陽の光が眩しいとか、雲の形が面白いとか、水の流れる音が綺麗だとか。そのすべてを教えてくれたのはビスだ。ビスが隣りにいるからこそ、世界は意味を持ったのだ。
それに気付いたのはいつだったか。……分からない。
気付いた時には、アドビスはバルサの全てだった。
『太陽が無いのなら、それはこことは違う、別の世界だよ。恐らく、魂が逝く世界のどこかだ』
いつかきたる未来のどこか。
『小さき魔女。あまり気にする必要はないよ。お前の力は強いが、とても不安定だ』
その夢が必ず現実になるとは限らぬよ。
木の精はそう言って笑い、水路へ視線を向けた。
水の流れが変って、渦が出来た。それは盛り上がり、人のカタチをとった。
木の上から、木の精が笑いかけた。
『やぁ、水殿。御足労、感謝するよ』
『お気になさらないで。古き癒しの木の方。わたくしのオルフェのためならば、何処へなりとも参りましょう』
水の精はそういって。
掌を目の高さまであげた。
いくつかの小さな水の玉が生まれ、それはアドビスとバルサに向かってゆっくりと飛んだ。
眠っているアドビスの額に水の玉が落ちて、吸い込まれた。
『お眠り、小さき魔女。水殿の力がお前たちを癒してくれるだろう。眠っている間は、私の枝がお前たちを守る』
安心してお休み。と木の精が言った。
水の精の冷たい手が、バルサの手に触れた。
『そなたの毒はわたくしが流しましょう。けれど、そなたの心が変わらぬ限り、毒は生み出され続けるでしょう。わたくしに出来ることは、一時の安らぎを与えることだけ』
水の精の言葉に、バルサは苦しそうに顔を歪め、目を閉じた。
『お眠り、愛しい魂たち』
タチタの木の声が、彼らを眠りに誘(いざな)い、水が毒を清め、柔らかな風が身体を包んだ。
おやすみ、愛し子。
おやすみ、小さな魔女。
安らぎの一時を与えよう。
『気休めに過ぎナいゾ!魔女の心が変らぬ限り、愛し子の身は危険に晒される』
『騒々しいね、風殿。寝た子を起こすような真似は止めておくに限るよ』
『ですが、風の言うとおりです。癒しの木の方』
『ヒトの心は、移ろいやすく不安定なものだよ。けれどね、たとえどれほどの時が過ぎようとも、変らぬ思いもあるのだよ。小さき魔女が愛し子を愛し続けるように。愛し子以外のすべてを憎み続けるようにね。小さき魔女の中から溢れ出る毒は、他人(ひと)に対する怒りと憎しみだ。魔女である母と己を虐げつづけたニンゲンという種を、彼は呪っているのさ。
悲しいことにその呪いは、彼が唯一愛する者の身をゆっくりと蝕んでいるのだけれどね』
木の精はアドビスとバルサをみた。
『一度流れ始めた毒は、止まらぬ』
だけど、愛し子は小さき魔女の側を離れぬさ。
変わり続けるモノがあるように。変わらないモノもある。いつか来る滅びが、彼らを砂のひとカケラにかえすまで、彼らは変わらないだろう。
『一時でも長く、安らぎの時が彼らを包むように』
私は、そう願うよ。
木の精はそう言って笑った。
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楽園Z・終
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