今年という一括りの時間、既に半分が過ぎてしまった。
しばしば考えるのだが
このひと月、この半年で、わたしは何を残せたのだろう?何を成し得ただろう?
わたしは誰かに何かを与える事が出来たのだろうか?
(そうして性急に結果を求めたり、誰かに影響を与えた実感を持ちたがるのは、自分に自信が持てないからなのだろう)
沢山あった読みたい本は、数える程しか読んでいないな
購入にすら及んでいないものもある
…あれもしたかった、これもしたかった、そんな風に嘆くばかりじゃ、何の解決にもなりはしない。
嘆く隙があるなら、行動に移す。
「無駄な時間を省く。」これが重要だ。
批判すべき点はさておくとして
それでは肯定しても良い点は、
欲しかったものを沢山手に入れた気がする。
書籍、衣類、CD。
それから、期待、信頼、そしてそれに伴って好意や関係性も。
度を超えた好意を退けるのは大変だったな。
いまも少しばかり苦労が掛かる。まあ、獲るものが増えれば要らないものも着いて来る。摂理だろう。
自分の欲しいものだけで100パーセント満たすなんてのは無理に決まってるんだ。
いま在る環境に身を置く様になってから、だいぶ価値観が変わった。
考え方や選択肢、行動範囲、それに嗜好品も。
もともと好きだったものを引き出して貰った面もある。間違いを正して貰った部分もある。
尊敬出来る人たちに出逢えてから、様々な良い影響を受けた。
もっと影響を受けていきたいと思える、尊敬に値する素敵な人たち。
そんな人たちに巡り会い、あまつさえ可愛がって貰えて…幸せな事だな。
幸せを噛み締めつつ、現状に甘んじる事の無いように、心に刻んでおこう。
いつも、いつまでも変化していたい。
重苦しい空気が、じわじわと神経を蝕む
或いは、既に狂っていたのか
研ぎ澄まそうとした神経は、いつの間にかぼろぼろに傷んでいた
気付かなかっただけ――否、見ない振りをしていただけ
本当は知っていた
もうどうしようもないってことくらいは
それでも、
立ち止まる訳にはいかなかったんだ
壊れたブリキのクルマのおもちゃみたいに
東郷青児の作品を観る機会に恵まれた。
目的は藤田嗣治だったのだけれど、一緒に並べられていた東郷の絵がやけに印象的だったので、ゆっくり眺めさせていただく事に。
東郷の描く女性は、眼光があり、それでいて柔和な雰囲気を醸している。
大きな眼なのにぱっちりと開いた眼ではなく、どことなくアンニュイに伏せがち。
眉は細い。指先も細く、しなやか。
印象としては、猫の様。
そうした女性像が、恐らく一般的に男性の理想とされるものを描いていたのでしょう、だから認知度が上がり数多くの作品が親しまれたのでしょう、と伺った。
藤田嗣治の絵は、猫以外はちょっぴりおっかないのだ。
妙にのっぺりした顔のこども。女性もまた然り。個人的にこちらはちょっと、理想の女性とは言い難いな。
猫はあんなに可愛く描けるのにな。
ぶっちゃけ東郷の女性は、新谷かおる・佐伯かよの夫妻の描く女性によく似ている。
まあ、お二方が東郷からインスパイアされたというところなのだろうけども。