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2012


この一年を振り返ってみると、
まず間違いなく節目の一年だったと思う。

運命の様な出逢いをした。
心底愛しいと思う人に巡り会えた。
その人がわたしを愛してくれた。

その人の支えになりたいと思った。
その人に支えて欲しいと思った。



来年は、今以上に幸せにしたいと思う。


愛してるよ、こねこちゃん。
愛してくれてありがとう、こねこちゃん。


色々あったが、少しは成長出来たかな。
来年はもっとがんばれ、自分。



よいお年を。

「幸せにするよ」

何かを、とりわけ他人を踏み台にして得る幸せは、本当に幸せと呼べるのか?

勿論呼べるさ。
わたしはそれを幸せと信じる。

あなたと過ごす時間を幸せと呼ばずして、何を幸せと呼ぶのだろう。
たとえそれが、どんな犠牲の果てにあるものだとしても、わたしはそれを手に入れる。








わたしは、自分が誰かと共に歩む事で幸せになる事をよしとしなかった。
それは、自分が文章を書く人間である為に必要な苦しみだと思っていた。はなはだ厨二くさい、理知的とは到底思えない馬鹿げた理由ではあるが、苦しみは文章に彩りを添える大事な要素であると思っていた。(実際は、苦しみを含む様々な感情を胸に宿したという経験が必要なのであって、なにも恒常的に不幸である必要はないのだろうと思う)
また、自分は幸せを得るには値しない存在だとも思っていた。愛される、必要とされるに足りぬものだから。(これには様々な理由があるのだが、今は割愛する)
しかしいま考えてみれば多分、それらの相手とじゃ幸せになれると思えなかったからそんな馬鹿げた考えを覆せなかったのだろう。
交際をする相手がいても、どんなに好きだと思っても、ここで気持ちの欠片を吐き出してきたように、どこか納得いかない部分があって持て余した気持ちを相手にぶつけるでもなく諾々と過ごしてきた。自分が相手をどれほど愛おしんでいるかを必死で伝えようなどと思わなかった。……そもそも必死で愛おしんでなどいなかったのだから、出来るはずもない。

相手に誠実でないのは、自分に誠実でないのと同意義だ。自分に誠実でないという事はつまり、自分自身が幸せになるという気概も持っていない(むしろ捨てている)という事になると思う。



さて、現在の自分はどうか。

言葉を尽くして相手への愛を語る。(遠距離恋愛だから、やり過ぎかと思う程にやらねば伝わるものも伝わらない。)
隠したいと思っていた自分も露出してしまっているから、今更取り繕おうという事もない。(それでもやはり、愛しのこねこちゃんの前では可愛く在りたいしかっこつけたいと思う。まあ、それは当たり前だろう。)なので、吐き出せずに持て余した感情というものもほぼない。
……子宮でものを考える生き物ゆえ、排卵期や月経前はどうしても情緒不安定に陥る。そういう時にこねこちゃんにうまく接する事が出来なくなったりもするのだが、大抵は言葉が距離を埋める手伝いをしてくれる。

実を言えば、愛しのこねこちゃんは出逢って半年ほどしか経たぬ相手である。
だが、年月が何だと言うのだろう。彼女はわたしを誰よりも理解しようとし、また深く愛そうとしてくれる。
彼女の言葉や態度に深く安らぎ、高揚し、幸せを噛み締める。勿論不安に思う事もある。しかしそれを凌駕する愛情を彼女は注いでくれる。

わたしは浮かれているだけなのだろうか?
――答えは、否である。
わたしがこの様に断定的にものを言うのは、初期衝動によって浮かれているわけではない。(多少なりと浮かれているふしはあるとも思うが)
彼女こそがわたしを幸せにする相手であり、わたしこそが彼女を幸せにする相手であると、わたしは確信している。
それは、わたしと彼女が巡り会う事が“運命”であり、お互いを求める事が“必然”だったからだ。
“運命”や“必然”とは、人間が己の通ってきた道、信ずる道を肯定し迷いを断ち切りたいが為に使われる言葉である。それでも、その言葉しかしっくり来ない。

五年後、十年後、もっとずっと先の未来でも、わたしは彼女と幸せに暮らしている。
わたしはそう信じている。




…とまあ、堅苦しい感じにまとめてみましたが、要するには
こねこちゃんまじちょーかわいかったよおおおこねこちゃんとおでーとちょうしあわせだったよこねこちゃんだいすきちゅっちゅっちゅ!
……という近況報告でした。




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眠気に任せて

つれづれ
だらだら
気の向くままに
書き連ねます
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愛しのこねこちゃんに会いに行きます。
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昨日は声、聴けて良かった

やっぱこねこちゃんの声聴けると大満足
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