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小話86


※視線恐怖症な忍足くんと、全てに疲れ切った跡部さんの、完全パロな跡忍



ピチチチ、と小鳥たちの華やかな歌声で、目が覚める。窓から差し込む日差しが眩しい。地平線から少し顔を出しただけだというのに、日の光はもうこんなにも強い。

夜はまだ明けたばかり。日の出と同時に、忍足の一日は始まる。
伸びをし、ベッドから起き上がる。キッチンへ行き、コップ一杯水を注ぐ。家の近くから出ている湧水を水道管で引っ張って来ているため、家の水はいつだって冷たくて新鮮だ。喉を潤し、胃までスッと冷たさが通っていくのを感じると、活力が湧いてくる。ホッと一息吐き、洗面所で顔を洗い、外へ出た。
外へ出る頃には、もうすっかり日が昇っていた。明朝の新鮮な空気を思いっきり吸い込む。木々が風に揺れ、さわさわと心地の良い音を立てている。この自然の音を感じる静かな空間が、俺は一番好きだったりする。

誰もいない。自分以外は誰も。己を傷つける者は、誰もいないのだ。

新鮮な気分を肌いっぱいに味わい、鶏小屋へ足を運ぶ。とっくのとうに活動を始めている彼らの餌台に稗や粟を混ぜた餌を撒き、食事に集中している合間に卵を必要な分だけ取り上げる。小屋を出たら、今度は畑へと足を向けた。この時期になると、己の手で植えた様々な野菜が実りを付けている。独り暮らしをしている俺一人では、食べきるのが難しいくらいの量の実が成るのだ。赤くなった真っ赤なトマト、左曲がりの不格好な大きくなり過ぎたキュウリ、青々と生い茂っている瑞々しいレタス、今にも弾けんばかりの丸々と膨らんだ実をこさえたインゲン豆。それらも必要な分だけ取り、家へと戻った。
目玉焼きに、インゲン豆のみそ汁、レタスとトマトの簡単なサラダ。この時期の俺の食卓は、大体こんな感じのメニューだ。

「いただきます、」

シンとした静かなダイニングに、俺の声だけが響く。
別に一人しかいないのだから挨拶なんてしなくても良いのだろうが、幼少期に食事のマナーを厳しく躾けられたため、今でも挨拶は欠かせない。一種の癖みたいなものだ。
簡単に食事を済ませ、洗いものを終えてしまえば、午前の仕事はもう終わり。ゆっくり時間が流れているここは、時間を持て余し気味だ。今日は天気が良いから、畑の手入れをしても良いかもしれない。ナスとキュウリを収穫して、漬物にしてしまうのも手だ。鹿や熊の被害に遭わないように、トウモロコシのエリアの柵を強化しておく必要もあるだろう。自生している山ブドウを採ってジャムや果実酒にするのも良い。
今日のやることを頭の中で張り巡らせる。やらなくてはいけないことは少ないが、やろうと思えばやれることなら幾らでもあるのだ。山の奥の奥地である只っ広い自然に囲まれたここで、やれることなんてたかが知れている。基本的に、俺は一日の大半を畑で過ごしている。たまに、近くで流れている川まで足を運んだり、森に入ったりもするが。
考え事をしながら使った食器を片づけていると、インターホンの音が高々と鳴り響いた。滅多にならないその音は、週に一度だけ必ず鳴る。どんな音よりも、俺にはその音色は恐怖でしかない。
生唾を飲み込む。背中にタラリと冷や汗が伝うのが感じる。耳のすぐ後ろ、あるいは脳髄に心臓が移動したかのように、鼓動が嫌な悲鳴を上げながら脈打つ。
もう一度、ピンポンと非情な音が木霊する。再び響いた音に弾かれるように、俺は玄関まで何とか足を動かした。

「……、はい」
「宅配でーす」

いつものように、やる気のない声が扉越しから聞こえる。大丈夫。いつもの男だ。扉を開け、荷物を受け取り、そしてサインをするだけじゃないか。もういい加減慣れただろう。顔さえ見なければ、大丈夫。何も怖いことなんてない。男は荷物を渡して、サインを受け取るだけなのだから。
怖くなんか、ない。顔さえ見なければ、何も。
今にも崩れそうな足を叱咤し、何とか踏み止まらせる。息が苦しい。呼吸が上手く出来ない。

「すんません、荷物重いんで早く開けてくれません?」
「……あ…、は、はい…っ…」

苛立った男の声が聞こえる。怖い。声からも怒っていることが分かる。けれど、もう待たせるわけにはいかない。震えてしまう手で、何とかドアを開ける。
扉の向こうに、男が立っていた。ただ、顔は見られない。どんなに頑張っても、彼の胸元までしか見ることが出来ない。他人の顔を見ることは、俺には出来ないのだ。
ズイっと渡された大きい箱を受け取る。ズッシリと重いそれを床に置き、手渡された請求書にサインをする。震える指先で書かれた不格好な自分の名前。それを男へ渡す。その後は、ただひたすら男の足元をジッと見つめた。何やら作業をしているのか、男がゴソゴソと動いている。けれど何をしているのかは確認出来ない。大丈夫、視線は感じない。相手は俺を見てはいない。荒れそうになる呼吸を堪えるため、歯を思いっきり噛みしめた。
早く帰って欲しい。一人に、なりたい。

「毎度ありがとーございます」
「……、…」

心の籠っていない常套句に、俺は返事をすることなく頷いた。とてもじゃないが、声を発することは出来なかった。男が扉を開け、出ていく。姿が完全に見えなくなるその短い時間が、俺には永遠のように感じられた。
バタンと扉が閉まる。鍵を三錠と、チェーンをしっかり施錠する。完全に、この空間には俺の存在だけになる。そこで、漸く安堵の溜め息が零れた。ズルズルとそのまま床に座り込む。ドッと冷や汗が流れ、背中や頬を伝った。心臓も思い出したかのように早鐘を打っている。週に一度のこの時間、いつまで経っても慣れない。多分、この先一生慣れることなんてないのだろう。
重い箱を引き寄せ、中を開ける。中には、魚や肉類に米、そして生活に必要な雑貨類がギッシリと入っていた。野菜や果物は己の菜園で事が足りるが、魚や肉はどうしても外から購入する必要がある。土地柄米は育たないため、米も買わなければいけないし、ティッシュ等の細々した生活雑貨も自分の手で作りだすことはどうしても出来ない。店で買わざるを得ないのだ。そのため、インターネットを使ってスーパーの定期購買を利用している。週に一度、ネットで注文した物をスーパーの店員が自宅まで届けてくれるのだ。
今日が、その週に一度の日だった。店員はいつも決まった時間に、俺の家を訪れる。その時間が、俺にとって一番苦痛であった。

なぜなら、俺は視線恐怖症だから。
他人の視線に、文字通り恐怖を感じる。他人から見られていると感じると、恐怖状態になりパニックを起こしてしまう。当然、俺も相手を見ることなんて出来ない。そんな病気に、俺はある日突然罹ってしまった。最初は見られる行為そのものがダメだった。それが悪化し、いつしか他人の存在そのものにも恐怖を抱くようになってしまった。見られている、侮蔑の視線を、軽蔑の眼差しを、俺に向けている。そんなことは決してないと分かってはいるが、それでも錯覚してしまう。他人が俺を傷つけようとしていると。
いつしか外に出られなくなり、俺は当時住んでいた家に引き籠るようになってしまった。しかし周りは許してくれなかった。特に、俺の両親は。軽蔑を含んだあの冷たい視線。今でも思い出すだけで息が出来なくなる。周囲の人間の冷え切った視線。それが恐怖症を余計に拗らせてしまい、そして更に周りの俺を見る目が冷たくなり……。
最悪な悪循環だった。とうとう両親は俺を見放し、俺は逃げるように家を出た。都会はあまりにも視線が多すぎる。だから、誰もいない、それこそ俺以外誰もいない、この場所を選んだ。ここなら視線を感じない。誰も俺を傷つける者なんていない。
ここで、俺はほぼ自給自足の生活をしている。もう、かれこれ五年ほど。週に一度宅配に来る店員以外、もう誰とも会っていない。この家から、一度も出ていない。外に出るのは、自分の敷地にある菜園と鶏小屋、そして家の近くの人気の全くない森林と川くらいのものだ。

視線が怖い。他人が、怖い。きっと恐らく、俺は誰とも会話することも、会うことも出来ない。このまま、一生。死ぬまでずっと。
そのことに、寂しさを感じない訳ではない。他人に恐怖心は抱くが、それでもやはり孤独は寂しいし虚しい。どうにもならない虚無感と孤独感で、胸が押し潰されそうになることも少なくない。
けれど、自分ではどうにもすることが出来ない。この恐怖症を直すことなんて、己の手では無理なのだ。もう五年近く顔を合わせている店員にも(正確に言うと、俺は男の顔を一度も見たことがないが)慣れることなんて一切なく、未だに恐怖を覚えてしまうのだから。

死ぬまで、独りなのか。

そんな考えが頭に浮かび、暗い影が俺を覆う。ゾクリと背中に悪寒が走った。
頭を振り、変な想像を懸命に振り払う。気持ちを紛らわせようと、箱を持ち上げ、荷物整理に取り掛かった。



畑仕事を終え、鳥小屋を掃除し、山ブドウを摘み終える頃になると、もうすっかり日が暮れていた。山道を戻り、家路を急ぐ。まだ夕暮れ時で明るいが、日が沈んでしまうとすぐにこの辺りは暗くなってしまう。街灯なんて利便的ものは一切ないため、何も見えないくらい闇に包まれてしまうのだ。
小道に落ちている枯れ葉のカサっという小気味の良い音が、周囲に木霊する。枯れ葉に混じり、時折小枝がパキッと折れる音もする。どこかでフクロウがホロロと鳴いている。もう夜はすぐそこまで来ている。闇に、飲み込まれる。宵闇に近い時間帯の森の匂いはどこか色濃い。薄闇で視界が優れない分、嗅覚が敏感になるからなのかもしれない。檜の安らぎを与える匂い。金木犀の甘い匂い。木の葉の蒼い匂い。どれも落ち着く香りだ。フクロウの鳴き声に対抗するように、鈴虫の鳴き声も響き渡る。耳を澄ませると、ネズミか何かの小動物がキィキィと鳴く声も小さく聞こえてきた。

暫く歩いていると、ガサガサと何かが蠢く音が聞こえてきた。ピタリと歩みを止める。音のする方を見遣った。音の方向は雑木林の奥から聞こえてきた。もうすっかり夕闇に包まれたそこを、しっかり確認することは出来ない。ウサギか鹿なら、まだ良い。向こうから害を与えてくることはないだろうし、逃げれば大丈夫だ。しかし、クマだったら?己ではどうにもすることは出来ない。タラリと汗が頬を伝う。ジッと静止し、物音を立てないよう注意する。息を殺して、向こうの出方を待った。
ガサリガサリと段々と音が近づいてくる。どうやら、こちらに向かってきているらしい。あぁ、最悪だ。どうか、熊ではありませんように…!
ギュッと目を瞑る。ガサッと一番大きな音がすぐ傍で木霊した。
しばらく目を瞑ったまま微動だにしないでいる。どうやら相手も動きを止めているらしい。気配だけが感じる。緊張感を含んだ静寂が、木々のざわめきの間に泡立つ。ホーと一声フクロウが鳴いた。気配は感じるが、それ以外の物音が相手から聞こえてこない。おかしい。獣なら、呼吸や呻き声が聞こえても良いはずなのに。
そろりと瞼を持ち上げる。ゆっくりと開けてゆく視界の先には、一人の男が立っていた。

「……、…」

爽やかな夏の空を嵌めこんだような瞳と、視線がぶつかる。怖いはずの視線が、普段なら見ることの敵わない視線を、逸らすことができなかった。あまりにも綺麗なスカイブルーの瞳のせいなのかもしれない。それに辺りはすっかり暗くなっているため、はっきりと相手の顔を確認することができなかった。
相手も驚いたように、目を瞠ったまま黙って俺を見つめている。暗闇のせいで明確には分からないが、物凄く整った顔立ちをしている。こんな綺麗な男が、何故こんな何もない辺鄙な山奥にいるのだろう。よく見ると、男は荷物を何も持っていない。山籠りするには身軽過ぎる。

「……この辺に、川がなかったか」

凛とした声が張りつめた空気に乗り、俺の耳を突き抜けた。凛としているが、棘はない。低めの甘いテノール声だった。男が真っ直ぐに俺を見つめる。貫くような視線にとうとう俺は耐えきれなくなり、視線を男の足元へ移した。それでも、いつものようにパニックにはならない。不思議と、恐怖は感じなかった。
そうだ、そういえば男が質問していた。確か、川がないかと。でも、何故川の場所なんて知りたいのだろう。こんな真っ暗な時間帯に、そんな身軽な格好で。

「な、んで…?」

ぽろりと口をついて出た言葉は、無意識のものだった。誰かと会話をするなんて、そんな芸当は今の俺には出来ない。視線恐怖症を拗らせて軽い対人恐怖症も患っている俺にとって、他人とコミュニケーションを取ることは、相当しんどいのだ。だから、見ず知らずの相手に己から話し掛けたことに、俺自身が驚いた。
しかし驚いたのは俺だけではなかったらしい。相手も驚いたような声を発した。

「……お前、俺を知らないのか…?」
「え…?」
「あ、イヤ、別に。それはどうでも良い」

相変わらず男の顔を見ることは出来ない。でも、先程見た限り、確かに物凄く端正な顔立ちをしていた。「俺を知らないのか」ということは、もしかしたら有名人か何かなのかもしれない。生憎、俺はテレビや雑誌類は見られないため、芸能関係は疎くて男のことは知らないが。テレビや雑誌は、当然カメラ目線のもが殆どだ。画面越しや紙媒体を通しているとはいえ、俺を見つめているようにしか見えないそれらを直視することなんて出来るわけもなく、現在住んでいる家にはテレビは無いし、雑誌類も一切購入していない。定期購入に利用しているインターネットも、必要最低限の使い方しかしない。購入画面以外は見ないようにしている。芸能ニュースなんて以ての外だ。
彼は何者なのだろう。有名人なら、尚更こんな所にいるのは妙だ。
俺の素直な疑問が雰囲気を通して相手に伝わったのか、小さく笑った声が聞こえてきた。

「こんな時間に、こんな山奥で、しかも手ぶらで来てたら大体察するだろ?」
「……?」
「死のうと思ってんだ」

“死のうと思ってんだ”
その言葉が、ズシリと響いた。脳内に、心に、骨の髄に。
ヒュっと息を飲む。思わず顔を上げると、全てを諦めきったような、途方にもなく哀しい、乾いた笑みを浮かべている男がいた。そんな表情も、美しく見えた。月明かりが、相手を照らしている。静かな灯が、物悲しい陰りを男の顔に作りだしている。それが、より男に切なさを色づけていた。

「この辺、星が綺麗だろ。最期に川に浮かんで星空眺めながらの、入水自殺。結構洒落てると思わねぇ?」
「……、…」

よく、分からない。自殺するのに、洒落ているか否かなんてそれほど重要ではない気がするが。何て答えていいか判断に困り、再び視線を落とす。コミュニケーション能力が著しく低い俺は、こういう時どのように対応すれば良いのか分からない。冗談で返せば良いのか、真面目に返せば良いのか。仮に冗談で返すべき場合でも、俺に冗談を言える余裕も会話力も皆無なのだけれど。
ただ、一つ浮かんだ疑問を、俺はそのまま相手にぶつけていた。またしても、思いがけず言葉を口にしていた。

「……何で、死にたいん…?」

視線は、地面と睨めっこ。恐怖心ではない別の何かに、俺の鼓動は早鐘を打っていた。誰かとこんな風に会話をするのは、もう何年ぶりだろう。内容はかなり神妙だが、それでも誰かとこんな風に話せるなんて思いもせず、俺の心はドキドキしていた。
男が、ほぅと息を長く吐き出す。木々がざわついている。リンリンと鈴虫が音を奏でている。暫く、沈黙が続いた。森が囁く音しか聞こえてこなかった。
どれくらい経っただろう。男が、吐息と共に「疲れたんだ」と呟いた。その声は、本当に疲労感でいっぱいだった。

「疲れたんだ、全部。周りの視線に、他人から見られることに。他人そのものに」

真情を吐露した声からは、諦観しか感じられない。本当に、全てに疲れきっているのだろう。
男が発した言葉は、俺の胸を突いた。一瞬、息をするのを忘れてしまうくらい、心に響いた。
だって、同じだから。俺と、同じだから。
顔を上げる。一瞬、男と目が合う。でも、綺麗な瞳を見ることができたのはほんの一瞬だった。先に逸らしたのは、どちらだろう。俺だろうか、それとも相手だろうか。もしかしたら同時にかもしれない。月光で照らされた相手の顔を見つめる。正確には、その整った形の良い唇だが。
胸が高まる。鼓動が速くなる。初めて、誰かと共感出来るような、そんな気がしたから。俺はもしかしたら嬉しいのかもしれない。ドキドキしつつ、俺は口を開いた。

「……俺、も」
「え?」
「俺も、一緒。他人の視線が、怖いんよ。せやから、誰もおらん、ここに住んどる」

たどたどしいながらも、相手に向け言葉を発する。ちゃんと相手に伝わっただろうか。こんなにちゃんと他人と話すのは、本当に久しいのだ。きちんと上手く伝わっているか、どうにも不安だ。
そっと相手を見遣る。上げた視線の先で、男は優しく微笑んでいた。それは、まるで絵画に描かれた聖母のような、慈悲深い笑みだった。男を照らす月の光までもが、神々しく見えた。思わず、見惚れてしまうくらい、それは奇麗であった。

「……そうか…、」

たった一言、そう答えた言葉も、どこまでも優しかった。真綿で包み込んでくれるような、安心させる声音だ。その一言で、俺は救われた気がした。両親さえ認めてくれなかったこの症状を、男は否定しなかった。それが、本当に嬉しかった。泣きたいくらいに。

「今夜は、月も星も綺麗だな」
「……せやね、」

男が夜空を見上げるのに釣られ、俺も視線を真上に向けた。満月に近い月と、ガラスの破片を散りばめさせた星々。細かい破片まで、光を受けてチリチリと蠢いている。都会では絶対にお目に掛かれない光景だ。文字通り、光の景色だ。

「……死ぬん、もう少し、先にせん?」
「え?」

男がこちらに目線を移動させたのが分かったが、俺は変わらず星空を見続けた。周りよりも強く光る星が、四つ見える。何かの星座なのだろうか。残念ながら北斗七星とオリオン座しか知らない俺には、何の形作った星座なのかちっとも分からない。
知っている星座がないか、目線をあちこちに移動させながら、俺は言葉を続けた。

「どうせ、死ぬんなら、今日でも明日でも、もう少し先でも、そんなに、変わらんやろ?」
「……そうだな、」
「俺ん家で、暫く過ごさん?ここ、星空以外にも、ぎょうさん、絶景あるで…?」

何故、こんなことを言っているのか、自分でもよく分からない。他人と空間を共有することなんて、俺には恐怖でしかない。自分以外の誰かがいるだけで、パニックを起こすのに。いくら、この男に恐怖をあまり抱かないとはいえ、全く抱かないわけではない。相変わらず、視線を向けられると恐怖と緊張でどうにかなってしまいそうなのだから。多少緩和されても、やはり視線は怖いのだ。
それでも、俺はもう少しこの男と一緒にいたかった。誰かと話しいて、こんな風に楽しいと思うのも、どこか安心感を覚えるのも、初めてだから。もう少し、この人と話していたいと思った。
男の視線が、俺から違う方へ向いたのが気配で分かった。俺と同じように、空を眺めているのかもしれない。

「……お前、名前は?」
「……忍足、侑士」
「忍足、ね。俺は跡部景吾」

跡部…、と俺は言葉にせず口の中で噛み砕くように呟いた。五年も定期的に会っている店員の名前は知らないのに、会って間もない男の名前を知ることになるなんて、今までも自分では考えられないことだ。何だか、少し不思議な気持ちになった。

「ペガススの四辺形、こんなにはっきり見えるなんてな」
「え?」
「ほら、あそこ、四つ大きく光ってんの」

どうやら先程疑問に思っていた星座は、ペガススの四辺形というものらしい。名前を言われてもあまりピンとこない。跡部は星座に精通しているようで、つらつらと他の星座も指で示している。いまいちよく分からないが、指差す方向を目で追った。カシオペア座だけは、中学で習ったことがあるので知っていた。

「悪くねぇかもな」
「……ん?」
「最期の晩餐、誰かと共にすんの」

思わず夜空から跡部へと目を向ける。跡部も俺を見つめており、柔らかい笑みを浮かべていた。優しい笑みだが、悪戯好きな少年のような、童心さを滲ませた笑みだ。最期だなんて縁起でもないことを言っているのに、随分楽しそうだ。
「悪くねぇな」ともう一度呟き、跡部は空を見上げた。俺も一緒に見上げる。跡部が教えてくれた、アンドロメダ座が鮮やかに瞬いていた。
確かに悪くない。

星の輝きに連動するように、虫の音が鈴のように奏でる。まるで、星がリンリンと音を立てて煌めいているようだ。
暫く何も言わず、お互い空を一心に見つめていた。


アンドロメダ座が、俺たちを優しく見守っているような、そんな気がした。



FIN

小話85

恋人未満な跡忍



「げ、降ってきやがった」

「ホンマや。さっきまで晴れとったんにな」


いきなり大きな音がしたかと思えば、大粒の雨が窓を叩きつけている。
バケツとひっくり返したような大雨に、帰宅途中の生徒が慌てて駆け足で急ぐのが見てとれる。

けど、多分気まぐれな通り雨、天気雨と言った方が正確か。
西のほうには鮮やかな夕陽が見える。
きっと、すぐ止むに違いない。

ホッと溜め息を吐いて、机上に散らばったメニュー表に視線を移す。
向かえに座る忍足は、未だにぼんやりと窓から見える景色を眺めていた。

部活の新しいメニュー表を教室に残って考えていたら、ふらりと現れた忍足。
こいつはいつだって神出鬼没だ。
そのミステリアスな容姿も相まって、一部の女共からは宇宙人やら不思議くんやら色々言われているが、実際の彼は至って単純でシンプルなヤツだ。

今だって、アンニュイな表情で外を見ている姿がミステリアスで、女子たちの心を擽るのだろうが、実際はそんなことはない。
何にも考えてないか、せいぜい夕飯が何か考えているくらいだろう。
忍足は、ぼーっとしてて、何にも考えていないことの方が多い。
ミステリアスでも何でもないのだ。
本当に、この男は何も考えていない。
四六時中寝ているジローの方が、まだ物事をきちんと考えていると思う。

ポーカーフェイス?笑わせるな。
コイツは人よりワンテンポもツーテンポも遅いのだ。
物事を理解するのに偉い時間が掛かる。
だから他人が取った言動や行動を理解するのにも時間が掛かり、本人が理解した頃には他はもう既に違う話題に移っている。
脳内で処理する間、ボーっとしていたり無表情だったりする。
それが、周りには冷静沈着、ポーカーフェイスと評価されているのだ。

実際のコイツはそんな格好の良いものではないのに。

反応こそ遅いものの、ちゃんとリアクションはする。
意外と子供っぽいし、すぐムキになる。
分かりにくいが、表情だったコロコロ変わるのだ。


「オイ、手伝う気がないなら帰れ」

「酷い。ちゃんと手伝っとるよ」

「お前の手伝いは外の景色を眺めることか?」

「雨、止むんかなー思って」

「止むだろ。ただの天気雨だ」


何が面白いのか、俺の返事に忍足がクスクス笑う。
今の返しのどこに、面白い要素があったというのか。


「何笑ってんだよ」

「跡部が天気雨って言うん、おもろいな」

「意味わかんねー」


未だ笑っている忍足に、平部員用のメニュー作成用紙を投げ付ける。
投げ付けて1・2・3秒後。
忍足が吃驚した顔で俺を見つめた。


「これ、俺がやるん?」

「俺を笑った罰だ」

「横暴…!」

「出来たら、ご褒美に行きつけのカフェで茶くらい御馳走してやる」

「………」


また、妙な間が出来る。
きっと、色々考えているのだろう。


「……パンケーキ、あるん?」

「あぁ。あるぞ」

「ミルクティーも?」

「カフェだからな。あるに決まってんだろ」

「………」


忍足は、意外と食べ物に釣られる。
甘いもんとか、子どもが好きそうなものをダシにすると、案外簡単に操れたりするのだ。


「……カレーもあるかな?」

「……さぁ、それはどうだったかな」


どうやらカレーが食いたいらしい。
まぁ別に、カフェじゃなくてカレー屋に連れてってもいいけどな。


「お前の好きなところに連れてってやるよ」

「ホンマ?」

「あぁ」

「じゃあ、美味しい餃子のお店に行きたい」

「オイ、カレーはどうした」


気まぐれで気分屋で、行動が読めないのが忍足だ。
素っ頓狂なことを言うのは今に始まったことじゃないが、悔しいことに毎度意表を突かれてしまう。
そこが、ある意味天才なのかもしれないが。


「まぁ、どこでも良いから、とっとと終わらせるぞ」


話をそこで区切り、悔し紛れに目の前にある薄い唇を奪ってやった。
女のそれと違い柔らかくなく、少しカサついていた。

予期せぬことだったのか、忍足はポカンとした表情で俺を見つめた。
それが何とも間抜けで、悔しさがスッと消えていった。


「……、…」

「……オイ、生きてるか?」


瞬きすらしない忍足の顔の前で手を左右に振ってみせる。
全く微動だにしないから、凍り付いてしまったのか心配になってしまった。


「……レモン味」

「あーん?」

「レモン味やなかった」

「ふはっ」


あまりに乙女な少女染みたことを言うから、思わず吹き出してしまった。
何故笑っているのか分からないのか、忍足が不思議そうに俺を見遣る。
そんな忍足の頭をグシャグシャに掻き回し、作業を再開させたのだった。

 

FIN
即興小説で書きかけだったものに、加筆しました
ノリでキスしてしまったけど、そこまで深く考えていない二人だったり。

小話84

※小話81の続き
※続きにおまけ




「うぅ…、」



窓から差し込んでくる朝日が眩しくて、目が眩む。
目を覚ますと、まず最初に酷い頭痛が襲ってきた。
内側からガンガンと金槌か何かで脳を打ちつけられ、揺さぶられるような、あの嫌な感覚。
頭痛と同時に、激しい胸やけも込み上げてきた。
胃が煮えたぎったように熱い。


漸く自分が二日酔いになっていることに気付いた。



「(せや、昨日は飲み会で…、)」



やけ酒を煽って浴びるように飲んだくれていたのだ。



「(……最悪や…)」



柔らかいシーツに、身を沈める。
そこで、はたと気付いた。


自分の家の、ベッドではない。
俺の家のベッドは、こんなに柔らかい感触じゃない。



「ど、どこやっ…、」



慌てて起き上るも、嘔吐感に襲われ、再びベッドに身を沈めた。
注意深く周囲を見渡す。
豪華なシャンデリアが施された天井、質の良い上品なインテリアの数々…
明らかに、この部屋は豪勢であった。
俺の自宅ではない。


記憶を辿るも、トイレで戻したところまでしか覚えていない。
それ以降の記憶が、ぷっつり切れていた。


あの後、自分はどうなったのだろう…?

内心パニックに陥っていると、扉がガチャリと音を立てて開いた。
驚きながらドアに視線を向けると、ワゴンを押しながら跡部が中に入ってきた。



「お、目ぇ覚ましたか」


「な、なっ…!」



何故跡部がここに?という疑問が、上手く口から出てくれない。
驚愕し切っている俺を余所に、跡部がベッドの淵に腰を掛けた。


何で、跡部がここにいるのだろう?
何で、さも当たり前かのように、ベッドに腰を掛ける?
あぁっ、そんな簡単に人の髪を撫でないでくれ!


言いたいことは色々あるのに、優しく髪を撫でられると、何も言えなくなってしまう。
跡部にとってはただの何でもないスキンシップに過ぎないのだろうが、俺にとっては、そんな行為でも心臓が保ちそうにない。


だって、俺は跡部のことが好きなのだから。


好きな人に髪を撫でられても平然としていられるなんて、そんな器用なこと俺にはできない。
優しく撫でられる感触が、ビリビリと俺に伝わってくる。



「具合はどうだ?」


「……や、ぁ、う…」



そんな優しい声を、柔らかい表情を、俺に向けないで欲しい。
情けないが、何も言えなくなってしまう。
何で、そんな優しく笑い掛けるんだろう?


俺と跡部なんて、別にそこまでの仲ではなかったのに。


息を整え、小さく深呼吸する。
何とか、落ち着きを取り戻したかった。



「……何で、俺ここにおるん…?」


「覚えてねーのか?」


「……トイレに行ったとこまでは覚えとる」


「お前、トイレから出てきたけど、そのまま潰れて倒れちまったんだよ。そのまま抜け出してタクシー拾ったは良いが、お前ん家知らねぇし、ここに運んだ」


「……ここって、」


「俺が宿泊してるホテルだ」



ああああ、何て言う失態だ
穴に入って引きこもりたい


情けなさ過ぎて、涙も出てこない



「……ごめん、」


「別に気にしてねーよ」



肩を竦めながら笑みを見せる跡部は、やはり大人っぽくて、俺の記憶の中の跡部よりも何倍もイイ男になっていた。
そんな何でもない仕草も、見惚れてしまうくらい様になっている。



「ほら、これ飲め。グレープフルーツ絞ってもらったから、二日酔いでも飲めるだろ」


「……ありがと、」



ワゴンの上にあったグラスを受け取る。
柑橘類特有の、甘酸っぱい香りと味がじんわり口の中に広がった。
グレープフルーツの酸っぱさが、二日酔いでムカムカしていた胃を洗浄してくれる気がした。



「お前、酒弱ぇんだな、意外」


「……よう言われる」


「ったく、何で弱いって知っててあんなに飲むかな」



呆れたように笑われるが、言葉を詰まらせる以外術がない。
だって、しこたま飲んだ原因が、目の前にいる男なのだから。


黙って俯いて、グラスに口を付けた。
グレープフルーツの酸味が、ピリリと口の中に広がった。
独特の苦みが、胸にまで沁み込んだ。



「……お前、泣いてたろ」


「……え…」


「トイレで吐いてた時。ドアの外まで聞こえてきたから」


「……さぁ、覚えてへんな」



ギクリとするが、表に出さないようにグッと堪える。
まさか、泣いていたことまで知られるとは。
確かに泣いていた。
そこまでは、覚えている。


でも、しらを切った。
知られるわけには、いかなかったから。


跡部のことで泣いていたなんて。



「……跡部、結婚しないん?」


「え?あー…、……あぁ」


話を逸らすには、あまりにも唐突だったか。
けれど跡部は戸惑いながらも答えてくれた。



「でも、好きな子、おるんやろ?」


「……まぁ、な」



乾いた笑みが、自然と浮かぶ。
ジクジクとした痛みが胸一杯に広がった。
虚しさだけが、俺を取り巻く。


その答えが、俺の失恋を裏付ける決定だった。



「……結婚すればえぇやん」


「結婚は相手がいなきゃ出来ねぇだろうが」


「美佳子ちゃんなら、断らんと思うで?お似合いやし」



虚空の言葉が、スラスラと零れ落ちる。
一言話すたびに、胸の痛みが増す。
こんなの、自分を傷つけるだけなのに。



「何でそんな言い切れるんだよ」


「跡部に想われて、拒むヤツなんておらんやろ」



俺だったら、喜んで受け入れるのに


心の中で、ポツリと呟く。
伝えることが出来ない想いが、燻って心の底で焦げ付いた。



「そうか?」


「跡部に好きって言われたら、誰だって嬉しいやろ」


「ふーん」



ギシッとベッドが軋む音が響く。
何を思ったのか、跡部がベッドに乗り上げてきた。



「跡部…?」


「俺が口説けば、落ちると思うか?」


「……せやね、跡部なら」



そう告げると、クスリと笑う声が聞こえた。


あぁ、跡部は好きな子を口説き落とすのか。
その優しい笑みで、甘い声で、色気たっぷりの雰囲気を漂わせて。


俺じゃない違う人に、甘い言葉を囁くのか。


あの綺麗で洗練された、美しい美佳子ちゃんに、好きと告げるだろう。
美男美女の二人だ。
お似合いのカップルになるだろうな。


あぁ、胸が痛い。
ジクジク傷む。
心が軋んで、悲鳴を上げている。


独りでいたら、とっくに声を枯らして泣き叫んでいただろう。



「……忍足、」


「なん、…っ…」



名前を呼ばれて反射的に顔を上げると、意外と近くにあった端正な顔立ち。
近すぎる距離に、息が詰まってしまった。



「ちょ、ちょおっ…」


「俺、本気でいくからな」


「……へ?」


「お前のこと、本気で口説くから」


「な、なっ…」



至近距離でパニックに陥っている俺とは正反対に、どこまでも飄々としている跡部。
言われた言葉は、よくわからない。
彼は、何を言っているのか。


本気って?口説くって…?



「ど、どういう…、」


「そのまんまの意味だ」


「え、えっ…」


「おっと、時間か」



腕時計で時間を確認した跡部が、スルリとベッドから下りた。
状況が飲み込めない俺は、置いてけぼり。



「悪い、これから少し仕事で出なきゃいけねぇんだ」


「え、えっ…」


「そのままゆっくりしてろ。あ、間違っても帰るなんてアホなことすんなよ?」


「ま、待ってや!」



そのまま部屋を出て行こうとした跡部を、慌てて引き留める。
あまりにも早急で予想外過ぎて、頭がついていけない。



「続きは帰ってから、な?」


「なっ…」


「あぁ、それと、俺、美佳子が好きなんて一言も言ってねぇからな?」


「え…?」



言いたい事告げ、跡部は今度こそ部屋を出て行った。
パタンと閉まった扉の音が、部屋に鳴り響いた。



「え?え…?」



好きな人、美佳子ちゃんじゃない…?
じゃあ、跡部の好きな人って…



「訳、わからん…」



家主のいない部屋に、ポツリと呟かれた言葉が消えてゆく。


色々想定外過ぎて、訳が分からなさ過ぎて、頭がパンクしそうだ。



「……ハァ、」



溜め息を一つ吐いて、ベッドに沈み込んだ。
柔らかいシーツが、優しく俺を包んでくれる。


取り敢えず、寝よう。
眠気も二日酔いもすっかり吹っ飛んでしまったけど。
眠って、もう一度考えよう。


そして、戻ってきた跡部に、もう一度きちんと説明してもらおう。



堅実逃避という名の眠りにつくため、無理矢理目を瞑った。

 



FIN
→おまけ

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小話83

天然×ムッツリな跡忍


「あちー」


ガチャッ!と扉の開く派手な音と共に、部活を終えてシャワーを浴びた跡部が出てきた。
しかも下着一枚、所謂パンイチの状態で。


「あ、跡部服っ…!」

「アーン?別に風邪なんて引かねぇよ」


顔をほんのり赤らめて抗議する忍足を尻目に、見当違いのことを言う跡部。
髪をちゃんと拭かないまま出てきたのか、雫がポタポタと顔の輪郭を伝って落ちている。
水も滴るイイ男、とはまさにこのことだろう。
そんな色気がダダ漏れな跡部を目の前にした忍足は、堪ったものじゃない。
照れて顔を真っ赤にするのも頷ける。

色気を抑えて欲しくて服を着ろと言ったのに、自身のことに関しては果てしなく鈍い跡部は、そんな忍足の思惑なんて知るはずもなく、お構い無しに備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。


「あー…、生き返る」


ゴクゴクとミネラルウォーターを流し込む跡部を、忍足はそっと見つめる。
正確に言うと、跡部の喉仏に視線が囚われていた。


「(エ、エロい…)」


綺麗な喉仏が、上下に動いている。
それが酷く煽情的で、妙に色気があるのだ。


元々、セクシーだの存在がエロいだのと男女問わず言われることの多い跡部。
恋人である忍足も、例に漏れず跡部は色気が漂っていると思っている。

女子たちは、目元の黒子がセクシーとか、綺麗な手だけどエロいとか、跡部を讃えることが多い。
が、忍足は、跡部のエロさは喉仏にあると考えていた。

綺麗な首に映えるように、喉仏もまた形の良い綺麗な喉仏が、主張するように出てて存在感がある。
それが上下に動いていると余計に…


「……忍足?」

「え、あっ…」


いつの間にか、ぼんやり見惚れていたらしい。
訝しげな表情の跡部に声を掛けられ、トリップしていた忍足は現実に戻ってきた。


「ぼーっとしてたぞ?具合でも悪いのか?」

「や、ちゃうよっ…」


心配そうな顔をして、跡部は忍足の座っているソファに近づいた。
どうやら、顔が赤いのを具合が悪いと勘違いしているらしい。

一度意識してしまうと、もう元には戻れない。

濡れた洗い髪、綺麗な首筋にこれまた綺麗に出ている鎖骨、男らしい肩のライン、スラッと伸びた長い腕と、節くれた綺麗な指…

跡部を作るパーツ全てが、綺麗で、そして色気があるのだ。
その色気に当てられると、どうしても情欲がそそられてしまう。


「(平常心、へいじょうしん…!)」


バランス良く筋肉のついている、鍛えられた身体。
惜しみなく晒された上半身、割れた腹筋、綺麗に筋肉が浮かぶ上腕二頭筋…
着痩せするタイプの跡部は、脱ぐと意外と逞ましい。
いつもその腕に抱かれ、男らしい胸板に身を寄せて…


「(ア、アカンっ…)」


夜の甘い一時が、忍足の脳裏に浮かび、なかなか消えない。
一度思い出すと、もう堪らない。
跡部が欲しくて欲しくて、どうしようもない状態だ。

通常より、うんと甘い声で耳元で囁き、吐息に近い艶めかしい声を発する
雄の獣のような視線で射抜かれたかと思えば、何処までも優しい色をアイスブルーの瞳に灯す
激しく、時に優しく掻き抱く、その長い腕…
逃れられない快感にのたうち回り、どうにも出来なくて、その広い背中に爪を立て…

ベッドの上の跡部は、獣のような激しい劣情と、忍足を想う広く寛大な優しい心と、二つ同時に忍足にぶつける。
彼の本音が垣間見えるその瞬間が、理性を忘れて感情をぶつけるその姿が、忍足は堪らなく好きだった。

あぁ、シーツの波に溺れながら、名前を呼んで欲しい
あの甘く優しい、掠れ声で…
そして、何もかも忘れて掻き抱いて欲しい

跡部から与えられる快楽が、欲しい



「忍足…?本当に大丈夫か?」

「……あ…、」


いつの間にやら、忍足の隣に腰掛けていた跡部。
劣情に見舞われた忍足は、ほんのり浮かんだ涙により、間近にある跡部の顔もぼんやりとしたものになっている。

自然と荒くなる息、熱の集まった頬、少し涙目になった瞳…

しかし、鈍い跡部には伝わらない。


「顔赤いな…、熱あんのか?」

「……っ…」


コツンと、額と額が合わせられる。
何もこんな古典的な方法で、熱を計らなくても良いじゃないか。
忍足が心の中で、悪態を吐く。

顔と顔の距離が近くなったことにより、跡部の吐息が顔にかかった。
それすら、今の忍足には熱を上げる要因になる。

自ずと、跡部の唇に視線が行く。
形の良い薄い唇。
けれど、艶やかで妙な色気を持った、唇。


「(キス、したい…)」


その熱い唇で、何もかも奪って欲しい。
跡部以下のものを忘れさせ、無我夢中にさせて欲しい。
熱を持った舌で、嬲り尽くして欲しい

跡部の熱を、感じたい

次から次へと、劣情が湧き上がる、はしたない自分。
けれどどうしようもない。
跡部を感じたくて仕方ないのだ。


「熱は無さそうだが、具合は悪そうだな。このまま帰れそうか?」

「(……ぁ、…)」


そんな忍足の心内なんて露知らず、跡部は心底心配そうな顔をしながらも、忍足から離れて行った。

咄嗟に、忍足は跡部の腕を掴んだ。
無意識の行動だった。


「忍足…?」

「……ゃ、そ、のっ…」


キスして欲しい、何もかも忘れるくらいの。
抱きしめて欲しい、熱く溶けてしまうくらい肌で感じるような。
抱いて欲しい、理性なんて吹き飛んでしまうくらい熱く煮え滾る熱を穿つ程の。

言いたい。
言ってしまいたい。

でも、言えない。


人一倍劣情を持ち合わせる忍足だが、それと同じくらい、羞恥心も人一倍強かった。
熱を吐き出すよりも、恥じらいが勝ってしまう。

だから、こうして悶々とした気持ちをいつも持て余し、表に出せないでいるのだ。

だから、ほら、今も


「……は、離れたくないっ…」


これが、忍足の精一杯の誘い文句だ。
心の内では、どうしようもないくらいはしたない感情を抱いているのに。
可愛らしい台詞なんか簡単に汚してしまうくらいの、熱情を。


「ん?じゃあ、今夜泊まっていくか?」

「……ん、」


そんな忍足の葛藤なんて知らない跡部は、言葉通りに受け取り、今夜一緒に過ごすことを提案する。
そこに、燻んだ熱情なんて、微塵もない。

性的なことに関しては意外と淡白な跡部は、あまり夜の誘いなんてしない。
恐らく今晩も、何もしない夜を忍足と二人で過ごすつもりなのだろう。

そして、意外とムッツリな忍足は、内心悶々とした気持ちを抱いたまま、熱をひたすら押し殺して、跡部とベッドを共にするのだ。


恐らく、そんな夜になるに違いない。



FIN
跡部さんはスイッチ入るとエロいけど、滅多にそのスイッチが入ることはない淡白な性格
忍足くんはその逆で、いつでもスイッチが入っちゃう、ムッツリな性格

小話82

とある部屋に閉じ込められ、監禁された跡忍

《脱出条件》
・課せられたミッションをクリアしないと、脱出することは出来ません。
・下手な行動を取ると、ペナルティが課せられます。
・各自脳波や心拍数、サーモグラフィーによる体温を随時記録しています。そのデータを元に嘘か否かを判断致しますので、嘘を吐かないようお願いします。
・嘘を吐いたと判断された場合、その時点で脱出は不可能になりますのでご注意下さい。





「……で、これがミッション、と」


呆れた表情で、跡部はミッションの書かれた紙を指で摘み上げた。


『跡部くんは忍足くんの好きな所を、忍足くんは跡部くんの嫌いな所を、それぞれ五つ挙げて下さい』


「(……好きな、とこ)」


跡部は呆れ顔だが、忍足は内心ドキドキしていた。
普段滅多なことがない限り、忍足への想いを口にしない跡部。
付き合ってもう2年近く経つが、好きだと直接言われたのは、片手で数えられる程度。
しかも、それらは殆ど全て忍足がせがんで無理矢理言わせた形に近い。
忍足はよく自分の気持ちを口にするが、それも軽く流してしまうくらい、跡部は所謂ツンデレというヤツであった。

これはまたとないチャンスだ。
跡部の気持ちが聞ける、絶好の。



「ハァー…、しゃーねーな。とっとと片付けて早く脱出するとするか…」


嬉しそうにしている忍足とは反対に、跡部は心底嫌そうな顔をしていた。
それもそうだ。
素直じゃない彼が、本音を語ることなんて苦痛以外の何物でもない。
それに加え、相手から己の嫌いな点を聞かされなければいけないのだから、尚更だ。


「よし、忍足から言え」

「お、俺…?」

「俺は嫌いだと思われてるのを聞かされなきゃいけねーんだぞ。しかも五つも。イヤなもんから先にやっつけた方がいいだろうが」

「お、おん…」


それもそうか。
納得はしたが、流石に躊躇われる。
視線を彷徨わせながら、忍足は言葉を口の中で噛み殺した。


「(嫌いな、とこ…)」


全くないわけでは、ない。
付き合っていれば不満な点や嫌な所もある。
けれど、それを本人にぶつけるのは、また話が違ってくる。
大好きな相手に、好きな所ではなく、嫌な所を告げるなんて…


「………」


忍足はそっと、目の前に立つ跡部を見つめた。
覚悟は出来ているのか、跡部は腕を組みながら、忍足からの言葉を待ち構えている。
そんなところも、男前で格好良くて、忍足は一瞬見惚れてしまうのは、惚れた弱みか。

忍足も覚悟を決め、小さく深呼吸をした。


「……モテすぎる、とこ」

「……それは、俺にはどうにも出来ねーな」


小さく呟かれた言葉に、跡部も困ったような声で言葉を返した。
そんな反応に、忍足は思わずムッとしてしまう。


「や、やって、何やかんや言うて、跡部は面倒見えぇっちゅーか…、せや、誰にでも優しいねん!」

「そうか?」

「せや!一見傲慢そうに見えて実は優しくて世話焼きやから、女子はそういうギャップに弱いねん!」

「何だそれは」


強く言い切った忍足に、跡部は首を傾げる。
どうやら、本人には自覚がないらしい。

一度言ってしまえば、躊躇いが無くなったのか、堰を切ったように忍足の口から不満が溢れだした。


「そうやって自覚がないとことか、天然たらしなとこも、どうにかして欲しいわっ」

「……言ってる意味がわかんねー」

「この前も、偶然会った越前が抱き着いても、普通に抱き返しとったやろ!誰にでも頭撫でたりするし…、そういうとこやっ!」

「………」


身に覚えがあるのが、跡部は文字通り押し黙ってしまった。
懐かれやすいのか、跡部はしょっちゅう誰かしらに抱き着かれている。
そして、跡部も満更ではないのか、それを優しく受け止めているのだ。
また、癖なのか、男女問わず気を許した相手の頭をよく撫でている。

恋人が、自分以外の誰かと触れ合ってるのを見て、何とも思わないはずがない。
寧ろやきもち妬きな忍足は、内心嫉妬しっぱなしで、面白くなかった。

肝心の忍足には、あまり積極的に絡んでこない跡部だから、それは尚更だ。


「せやのに、俺には全っ然触れてこんし、素っ気ないし、冷たいしっ…!」

「……それは、」


言葉を詰まらせたまま、跡部は所在なさげに頭を掻いた。
思い当たる節が多々あるのだろう。
分かってはいるが、跡部の性格上、素直になれない。
歯の浮くような甘い台詞は勿論、シンプルに好きという言葉も、跡部にとっては中々口に出来ないのだ。

忍足のことを嫌いなわけではない。
そもそも好きじゃなければ、付き合ったりなんてしない。

言葉にしなくても分かるだろう?
何度忍足にそう言ってきたことだろう。


「……あんま、可愛いとかそういうん、他の人に言わんといて」

「………」


これも、跡部の悪い癖だ。
男女問わず、跡部は相手のことをよく褒める。
その気にさせてしまうような言葉も、さらりと言ってのけるのが跡部だ。

肝心の人には、全くそのような言葉はしない癖に。


「……もっと、好きって言うてほしい…」


聞こえるか聞こえないかギリギリの囁きに近い言葉が、忍足の心からの本音だった。


「……五つ、言うたで?」

「………」

「跡部は…?」


忍足の促しに、跡部はそっぽを向きながら、小さく咳払いを一つした。
咳払いだ誤魔化すのが、跡部の照れ隠しをする時の癖だ。


「……そういうとこだ」

「え…?」

「そういう素直なところは、……嫌いじゃない」


それが、跡部にとって精一杯の素直な本音であった。
首筋まで赤くし、それを隠すようにそこに手を当てている。
言わずもがな、頬も真っ赤に染まっていた。

滅多にお目にかかれない、跡部の貴重な照れている姿だ。
その瞬間を少しでも逃して堪るかと、忍足は息を潜めてマジマジと目の前の想い人を見つめた。


「……こっち見んな」

「そんなん、…」


出来るわけないだろう。
その後の台詞は飲み込み、忍足は残り四つの本音を黙って待った。


「……俺のこと好き過ぎるくらい好きなとこ、とか」

「おん、」

「何事も一生懸命なとこ。周りに気を配り過ぎて、自分のこと後回しにしするとこ」

「あ、跡部…?」

「俺に向ける笑顔が眩しいとこ。すぐ好きって言うとこ」

「ま、待ってや…!」


今度は忍足が顔を赤らめる番だった。
滅多に聞けない跡部の本音とは言え、こんなに一気に捲くし立てられるとは、まさか夢にも思わない。
既に忍足のキャパシティーはオーバーし、貴重な本音を全て聞き取ることが出来なかった。


「……お前がもっと本音言えっつったんだろうが」

「せ、せやけど、そんな一気に言われるとっ…」

「うるせー。とっとと出るぞ、こんな所」


カチャリと鍵の開く音がし、部屋を出ようと、跡部が扉まで歩を進める。
ズンズン先を行く跡部のあとを、忍足も慌てて追いかけた。


「ちゃんと聞けんかった!」

「知るか」

「ふふ、好きやで?跡部」

「……そうかよ」


勢いに任せて好きなところを六つ述べたことを、跡部も忍足も気づかずにいるのであった。



FIN